「一人称」といえばクローバーフィールド
高木です。こんばんは。
以前にも書いたことがあったかと思いますが、「一人称で仕事ができる?」という記事がコンスタントにアクセスを集めています。
まさか、単なる文法用語の「一人称」に興味を持って検索する人がそんなに多いとも思えません。
やはり、「一人称で仕事ができる」とか「一人称で行動できる」とか「一人称で対応できる」などの意味がよく分からずに検索する人が多いのでしょう。
断っておきますが、当サイトの記事をいくら丹念に読んでも期待した答えは得られません。
それもそのはずです。
私自身が「一人称云々」の意味がさっぱりわからないからです。
というわけで、今回も「一人称」に関する話はしますが、期待した情報とはまったく無縁の内容となります。
英語など印欧語族では、人称というのは文法と密接に絡んでいます。
英語ではそれほどでもありませんが、古代語や古い形態を残している言語の場合、主語の人称によって述語動詞は複雑に屈折変化します。
日本語の場合、文法上は人称はほぼ意味を持ちませんし、名詞と代名詞の区別さえ実質的にはありません。
文法上は人称が意味を持ちませんが、敬語法では待遇表現を行う上で重要な意味を持ちます。
しかし、これはいわゆる人称とはちょっと違うのです。
複雑な文法要素(たとえば人称もそうですし、文法上の性なんかもそうです)を持つ言語というのは、はっきりいうと未開の言語のテイストを強く残しているといえます。
上代から古代ならサンスクリット語、戦国時代から安土桃山時代にかけてはポルトガル語、江戸時代においてはオランダ語、明治維新後は英語を通して多くを学んだ関係上、印欧語族の文法との対比で日本語を体系づけようとしたのでしょう。
しかし、そうした試みには無理があると思います。
「一人称」といえば、表面的な意味は理解できます。
けれども、日本語においては、あえて一人称などという文法用語を持ち出す理由そのものが、まったく意味不明なのです。
続いて、「で」という格助詞、これは文法用語でいえば「具格」を作るものですが、「一人称を(道具として)使って」といった意味になるのでしょうか。
そして、「仕事ができる」、「行動できる」、「対応できる」と続くわけです。
これは単に「仕事をする」、「行動する」、「対応する」という場合もありますね。
話を簡単にするために「仕事ができる」に絞ることにしましょう。
つまり、「一人称」を(道具として)使って「仕事ができる」ということになります。
これはどういうことでしょうか?
日本語は、主語や(「与格」や「対格」にあたる)諸々の連用修飾語を省略することができます。
省略可能なそれらに、あえて「一人称」を用いて表現するということでしょうか?
自発的に行動するとか、そういうことであれば、わざわざ発言しなくても実践すればいいだけです。
「一人称」はあくまでも文法用語であり、言語表現があってはじめて意味をなします。
「俺が」、「私が」のように、やたら自己主張をするのも、「一人称」を(道具として)使って、自己アピールという仕事をしているともいえます。
ほかにもいくつかの例が考えられますが、結局、意味を特定することはできないのです。
改めて問います。
「一人称で仕事ができる」とは、一体何を意味するのでしょうか?